2014年7月14日月曜日

【映画】「WOOD JOB」を観て来たから、なあなあ感想を語る【感想】



福知山シネマで上映していて、最終日だったので会員にもなった事だし見に行こうかと軽い気持ちで行ったが、面白かった。前評判でいいって言われていたのは知っていたがここまで見入ってしまうとは思わなかった。詳しく語っていきます。

王道ストーリ—+林業


ストーリーを簡単に言うと、大学受験にすべて落ちて浪人決定した青年が主人公。浪人確定の上、同級生の彼女候補ともほぼ破局。半自暴自棄になってパンフレットに乗っていた長澤まさみ目当てに林業訓練に応募。かなり軽い気持ちで一年間、田舎で林業訓練を受ける事に。携帯の電波もろくに届かない所で何度も逃げ出そとするが、徐々に林業の魅力に気付き成長していく…

話は、少年マンガのような王道のもの。ただ、その骨組みに「林業」を肉付けするとまた新鮮で面白かった。それに、林業って仕事がどんな仕事かってのが実際と差異はあると予想できるものの、木を植え、枝をこまめに切り、大切に育ててもその木の出荷は孫世代という事から「自分がやった仕事の成果が分かるのは死んだ後」ってセリフがなんかグッときた。結果、成果が早期に求められる時代とは、正反対の状況を見せられて自分自身結果を急ぎ過ぎているんじゃないかと思いもう少し楽に行こうと思った。

都会から見た田舎


僕は京都北部の田舎に住んでいる。都会人から見れば完全に田舎だと思うし、僕も自分が住んでいる街を都会とは思わない。ただ、徒歩でコンビニに行けるし大概の物は手に入る。しかし、この作品で描かれる田舎はもう2ランクか3ランク上のド田舎である。繁華街へ行くのに車で2時間かかる。田舎人の僕からしてもここは田舎だな〜と思うくらいだからほとんどの人は田舎だなぁ〜と思うのだろう。

だから、この作品を見るほとんどの人がド田舎という未知の世界へと冒険しにいく事になる。主人公は、最初電車が六時間単位でしか来ない事に驚き、昼間、車で引いた鹿が夜に食卓に出て来た事に衝撃を受ける。しかし、師匠演じる伊藤英明と寝食を共にし田舎の生活に慣れ、住民とも打ち解けてくるとだんだんこの村の住民になっていっていると実感できる。

それが、顕著に現れるのが大学から来たスローライフ研究会の一同と対峙した時。林業の取材をさせて欲しいと来るのだ。主人公にしてみれば、ほんの数ヶ月前まではそっち側であった。映画を見ている僕からすれば、ほんの数十分前までスローライフ研究会側の感覚だったはずだが、彼らの行動が無性に腹が立つ。この映画のうまい所は、テレビドラマではなく映画なのであからさまに癇に障る発言をしたりするのではなく、あくまで何気ない行動、発言で癪に触る感覚を表現している所。

映画の冒頭で主人公が木が倒れる際、「倒れるぞーーーー」と注意を促すセリフを冗談半分に叫び、伊藤英明が激怒するシーンがあるのだが、この時彼がなぜそんなに怒るのかがそこまで分からなかった。しかし、全く同じ事をスローライフ研究会のメンバーがすると、この時は既に村民になりかかっているので、伊藤英明がなぜ怒ったのかが十分に理解できる。言葉じゃなく感覚に訴えてくる作品構成がほんとに素晴らしいと思った。

やはり自分は日本人である、そうありたいと思っていると実感


科学の発達している時代。僕たち都会的感覚を持つ者からすれば村の風習やしきたりなど、非科学的な事をついバカにしてしまう。最初、主人公も車で山に入る時、皆が止まって両手を合わせて拝んでいる時に一人だけ拝まないなど風習をバカにまではしていないが受け入れていない描写がある。しかし、徐々に山に慣れ親しんでいくとふと見つけたお寺僧様的なものにおにぎりを半分お備えしたりする心が芽生える。それを見るとなぜか、心が穏やかになる感覚を体験してしまう。

さらに、神隠しに合うという理由から山に入っては行けない日があり、その日に子供が勝手に入って山で遭難するって事件が発生する。林業のメンバーはこぞって儀式をすまし入山する事に。そこで、主人公は山の神らしき者の助けを得て無事に子供を助ける事ができる。決定的には語られないが恐らく以前、おにぎりを半分備えたお地蔵様が関係しているのではないかと思わせる描写がある。神という風習、迷信であるがそれを尊く思い感謝する心が自分に帰って来たわけだ。その時、僕はなぜか胸が熱くなっている事に気付いた。なにに感動しているのか分からない。単純に子供を助けられて良かったと思っているのか?なんか違う気がする。

うまく言葉にできないが、科学というものを信用している一方、こういった風習、しきたり、「山の神に感謝する」もっと言えば「先祖を尊く思う」など非科学的なものを信じたいと思っているのではないだろうか。言語化できないが、その類いで胸が熱くなる感覚を体験できる素晴らしい作品であると思った。

でも、田舎の表現に携帯電波はもう古いんじゃね?


重箱の隅レベルの指摘であるが、田舎を表現するのに携帯の電波が圏外になっているってのはもう古いんじゃね?って思った。すでに携帯の電波は「え?ここでも繋がるの??」って思う事の方が多く、一部繋がりにくい所はあっても集落全体が圏外だなんてなかなか納得しにくい。実際にはまだまだ電波の届いていない集落があるのかもしれないが、多くの人の感覚とは合わないのではないだろうか。携帯が普及して15年ほどたつのかな?田舎を表現するのにそろそろこの表現使わないで欲しかった。まぁこれが特に目立つわけじゃないから全然いいんだけどね。

最後に…


多くをセリフにせず映像、感覚に訴えて見せる。こんな体験ができる映画を久しぶりに見た気がする。言語化されていないんだけど、なんか感覚でわかる。野暮な事は言わない映画。そんな体験ができる作品はなかなか無いと思う。映画らしい映画です。だからといって芸術に走るわけでもなく、しっかりとエンターテインメントとして成り立っていて面白い。是非、映画館で集中して見てもらいたい作品です。でも、劇場ではもうやってないのかなwDVDで見るときもながら鑑賞じゃなく集中して鑑賞して、田舎人になってみて下さい。


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