2013年9月19日木曜日

浜松日体高校の件で体罰について考えてみた。

浜松日体高校の体罰の動画がYouTubeにアップロードされたことで世間で話題となっている。今日は体罰について考えてみよう。

僕はおそらくゆとり第一世代。
僕は現在満28歳。ゆとり教育が始まった第一世代だ。(多分)僕の世代から小1のカリキュラムで理科と社会がくっつき「せいかつか」という科目にわかったと随分たってから知った。だから、区分すればゆとり世代になるのだろう。

僕の世代でも体罰があった。
そんな世代を生きた僕だが体罰はそこそこあった。「昔に比べたらこんなの可愛いもん」と言われたのを覚えている。先生が、強弱はあれど手を挙げる事はそこまで珍しくなかったのだ。諸先輩方の受けた体罰に比べたら大したことないのかもしれないが…いや、珍しかったが処罰を受けたという話は聞いてはいない。先生が手を上げたときは「ここまで起こってるんだぞ!!」的なアピールじゃないけどそう僕は受け取っていた。話題になり始めていた時だったので、構内で噂が広まれば全校集会で校長がフォロー入れるといった一幕も記憶している。

体罰についての僕の考え
体罰というか人から手をあげられることがなくなって早、十数年。今の感覚からするとやっぱりダメだろうと。僕は体罰が嫌いだが全否定するつもりはない。と言うか
「体罰をしても生徒は成長しない」
といってしまうと、絶対という言葉を使ってしまうことになり、もしかしたらそれで構成する人もいるかもしれないので保険をかける意味でで全否定しないという事で、全く肯定する気はないし、なくすべきだと思ってる。

このご時世、体罰をするリスクを考えるべき
ここで、僕が体罰が与える生徒への影響等を語っても面白く無いと思うので僕的視点で言うと、ここまで社会が体罰禁止の流れになってきているのにあえて体罰をする意味がわからない。もしかしたら体罰を行う事に信念を持っていて「こいつをどうしても変えたい」「俺はこの一発で首になってもいい」と覚悟の上で行ってるのかもしれないが、この事件の教師の動画をみてもそうは感じられない。

手を上げたらインパクトあるし、全国狙うとはこういうことだ。誰も文句言わないだろう。

こんな印象を僕は受けた。この先生はどういう思いで手を上げたのだろうか。不出来な生徒に喝を入れるため?それもあるだろうが、単純にイラッと来て叩いているようにしか見えない。

体罰は見かたを変えると暴力
言うまでもないが、人に手を上げるのは暴力であり犯罪だ。街で行えば、それが青少年であってもクビはもちろんのこと警察にまで世話になることになる。理由は余程のことがない限り許されない。でも、学校というエリアの中ではそれが「体罰」という名に変わり、日本人の感覚からそれが許されていた事は間違いないだろう。しかし、今は許されない。

愛情があっての体罰
よく聞くのが「愛があって殴っているのだから問題ない」という反論だ。しかし、これはした側とされが側、両方が同じ認識でなければ意味が無い。体罰をするさい一方的に愛情があってもそれはただの暴力なのだ。

親父が行っている例
僕の父親は空手の講師をしている。そのため小学生から中学生に接することが多い。親父と話していて一番気をつけることは「体罰」と「セクハラ」らしい。指導をする際、女の子には必要最低限しか触れない。これも、指導でやってるつもりだが相手が「おしりを触られた」などと思われてはそれは、セクハラに該当する。同じで、体罰も上達してほしいと思って殴っても相手はただ暴力と受け取るかもしれない。体罰するリスクが高すぎるのだ。

と言っても、無礼な行いなどはちゃんと大声などで叱っているとも聞いている。そう、他に手がないわけではないのだ。暴力との線引が曖昧な体罰を使うリスクより、それよりは効果が劣るかもしれないが(そうは思わないが)言葉で指導する方が健全である。(言葉の暴力もあるが…)

まとめ
体罰=暴力となっている現在、どんなに効果的であっても体罰はするべきではない。学校の指導ルールでも禁止となっているのだから、ルールを教える教師がそれを破っては本末転倒も甚だしいのではないだろうか。どんなにめんどくさくても言葉で伝える。それが、教師いや、指導者の役目であると思う。

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